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HISTORY

巴裡 小川軒の歴史

創業から120年
そして次の一歩へ

明治の創業から120年。家族の絆、時代の変化、数々の挑戦を乗り越えながら、伝統とともに歩んできました。

そしていま、私たちは"変わり続ける老舗"として、次の時代への一歩を踏み出そうとしています。

奉天会戦時の鉄五郎

〈第1章〉
小川軒のはじまり
〜明治の洋食と出会って〜

巴裡 小川軒の物語は、幕末に東京・神田で生まれた小川鉄五郎から始まります。やんちゃだった彼は家を飛び出し、横浜で英国人家庭に出入りするように。そこで出会ったのが、西洋の食文化でした。

1905年、戦地から戻った鉄五郎は、横浜での経験をもとに東京・汐留に洋食屋「小川軒」を開業。やがて新橋へと移転し、「新橋駅前の小川軒」と親しまれる存在に。

「新橋駅ができる前から小川軒があったんだから、新橋前の小川軒ではなく、小川軒前の新橋駅だ!」——鉄五郎の誇りがにじむ一言です。

〈第2章〉
順と斌
兄弟の絆と戦後の復興

9人兄弟の次男・順は、建築家を志していましたが、常連客の「電車賃を払ってまで、みんながわざわざここまで来る店だよ」の一言に心動かされ、父の跡を継ぎます。

戦争により店は縮小を余儀なくされ、兄弟たちは戦地へ。戦後、東京は焼け野原に。順は終戦後、店の復興に取り掛かります。そしてシベリア抑留から奇跡的に帰還した、弟の斌(あきら)と再会。兄弟は、二人三脚でお店の復興に尽力します。

「何が食べたい?ビフテキか?何でも作るぞ!」

——順の声に、シベリア抑留から帰ったばかりの斌が答えたのはまさかの"クリームソーダ"。

のちに斌は、「シベリアでは甘いものに飢えていた」と語っています。

竣工当初の新橋駅前ビルと小川軒
当初のレイズン・ウイッチは丸い形

〈第3章〉
ケンカから生まれた
レイズン・ウイッチ

戦後の再出発とともに、兄弟はレストラン経営に力を入れる中で、斌は物販、特に洋菓子に可能性を見出します。新橋店にショーケースを設置しようとする斌に、生粋の料理人である順は猛反対。

「料理を食べる席が減るなんて、あり得ない!」

激しい兄弟げんかの末、とうとう順が折れてショーケースは設置され、「レイズン・ウイッチ」が誕生します。

最初は丸くて大きかったそのお菓子は、当初、全然売れませんでした。斌は、残ったレイズン・ウイッチを帰宅時の電車内で配って歩いたそうです。そんな努力もあり、少しずつ認知されていきました。

その当時、料理人の順が語っていたモットー、「材料八割、腕二割」。どんなに良い腕を持った料理人でも、材料選びはとても重要であるとの意味です。
——順が大切にしたこの言葉は、今も私たちのお菓子作りの根幹です。

その信念のもと、現在も巴裡 小川軒では、素材の吟味を慎重に行い、美味しく、安心して食べられるお菓子作りを心がけています。

〈第4章〉
代官山への移転とその後

1967年、新橋の再開発に伴い、斌と順は代官山の土地へ移転します。当時は田園風景が広がる静かな地。「こんな場所でやっていけるのか」と不安を抱えながらも、新たな一歩を踏み出します。

その後、順の息子たちと甥たちが事業に加わり、ファミリービジネスとして、順風満帆に行くかに思えましたが、これからというタイミングで、順が急逝します。

その後、時を経て、順の息子とたちが独自の形で小川軒の味と精神を継承。

  • ・長男は代官山でレストランを継承
  • ・三男はお茶の水に店舗を構え
  • ・次男は目黒に洋菓子部門「巴裡 小川軒」を立ち上げ

「守る」と「進む」を両立しながら、小川軒は広がり続けています。

竣工した代官山のお店
開店当時 新橋店内でコーヒーを飲む二代目、順。

〈第5章〉
還暦2周目を終えて
私たちのこれから

2025年、小川軒は創業120周年を迎えました。人間に例えると、還暦2周目を終え、いま新たに"3周目"に突入しています。

伝統は、守るだけではなく、時代をいかにキャッチアップし、変化をし続けていくか、私たちはそう信じています。

創業の地「新橋」で、鉄五郎や順、そして斌に想いを寄せながら。

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